@article{oai:luther.repo.nii.ac.jp:00000234, author = {大串, 肇 and オオグシ, ハジメ and Oogushi, Hajime}, issue = {36}, journal = {テオロギア・ディアコニア, Theologia Diakonia}, month = {Mar}, note = {P(論文), 人間論用語「心」は,23章の文学的発展の歩みに関してのみならず,預言者たちとの闘争をめぐるエレミヤの神学的な論拠を理解する重要な鍵の言葉として役立っている。第一に,エレミヤの批判は,預言者たちの倫理的腐敗,目に見える態度や行動のみならず,まさに預言者たちの「心」の中にまで向けられている。すなわち,預言者たちの預言は,自分たちの願望や考えから生まれていることをエレミヤは暴露した(16節)。彼らの宣教そのものが「心の偽り」に過ぎないと断罪した(26節)。第二に,真実の預言者と偽の預言者との判断するための客観的な基準はなかった。少なくとも,聞いている当時の聴衆は真偽を容易に判断することは出来なかったにちがいない。だが,エレミヤは,審判預言者として神によって預言者にされただけでなく,彼の全実存として「ヤハウェの言葉の前に」(9節)立つこと,すなわち,彼の「心」が全く外からの,神の力によって砕かれ,支配されたという預言者自身の経験(vgl.エレ20,9)と基本的確信からのみ,その他の預言者たちが徹底的に区別され,排除されているに過ぎない。つまり,ヤハウェの言葉に圧倒され,心砕かれたヤハウェ預言者自身だけが,自分の願望や思考を語っている預言者たちと対決出来たのである。第三に,申命記史家的編集は,以上のエレミヤの見識を採用しがらも,更に,預言者たちの語った使信の内容そのもの,すなわち救済の使信こそが,「偽り」であると定義した(17節)。その際,救済預言者たちだけではなく,救済の使信を受け入れた民全体をもその罪責に連帯させたのである。ヤハウェの意志に対する不従順の罪が,民の「強情な心」として描かれている 第四に,この章の編集・改訂者は,預言者の批判を総括しつつ,神の「心」,神白身の審判への堅い意志と決定に関する発言を付け加え(19-20節),最終的には民の「強情な心」,預言者の「心の偽り」と対峙させることによって,審判の不可避性を強調し,ヤハウェ預言者に託された審判使信の真実を認証する。}, pages = {29--50}, title = {預言者エレミヤと預言者たち : エレミヤ書23章の釈義的研究}, year = {2003} }